希望の鐘
 68人の命を奪い、錦鯉の原産地かつ世界最大の生産地である新潟県中山間地を中心に大きな被害を与えた新潟県中越地震から3年目を迎えた2007年10月23日、当時全住民(690世帯2167名)が避難した旧山古志村(長岡市)で追悼式が行われ、地震発生の午後5時56分に遺族が、茨城県の鋳造会社から贈られた「希望の鐘」をつき犠牲者の冥福を祈り、ふるさと復興への思いを一つにしました。

 震災の年の冬は豪雪で、被災者は厳しい状況下での越冬を強いられました。その中に、京都・西本願寺の職員だった当時に阪神大震災を経験した方が、震災の年の大晦日にドラム缶を釣鐘にして除夜の鐘をついたことで希望がもてたことを思い出し、そのドラム缶を山古志村に寄贈しました。(左下の写真)

ドラム缶の鐘
2004年の大晦日、仮設住宅暮らしで除夜の鐘を聞くことができなかった被災者は、このドラム缶をついて新年を迎えました。それを知った茨城県の鋳造会社社長、小田部庄右衛門さんが「本物の鐘で心を癒して欲しい」と寄贈したのが今回の「希望の鐘」なのです。銅と錫で作られた鐘は高さ1.4m、直径78cm、重さ約600kgという立派なもので、「希望の鐘」「中越大震災復興祈念」「我が故郷、永遠に」「世界に響け感謝の音」の文字が刻まれ、内側には旧山古志村で犠牲になった5人の方の名前が記されています。

「我が故郷、永遠に」「世界に響け感謝の音」の言葉は一般公募によるもので、後者は山古志で半世紀以上に渡って数々の銘鯉を生み出してきた丸重養鯉田中重雄さん場のの言葉です。

田中重雄さん

鐘の音

田中さんに応募の経緯を話していただきました。

「たまたま昼ご飯を食べていたらテーブルに応募用紙を見つけて、こんなこと(釣鐘の寄贈)をしてもらって有難いことだなと思いました。それで、その気持ちのまま“世界に響け感謝の音”と。この鐘の音で感謝の気持ちが表わせたらいいなと思い応募しました。まさか選ばれるとは思っていなかったから最初は信じられませんでした。」

田中さんが被災したのは品評会準備中の会場でした。家族の元に帰らなければという一心で、暗闇の中、寸断され陥没した道なき道を歩いて帰ったとのこと。道中、土砂崩れの音を聞き、土砂の崩れる時間を計りながらの帰宅は命がけの経験だったそうです。

その後45日間の避難所生活と、約2年と半年間に及ぶ仮設住宅での生活を余儀なくされた田中さんは「自宅に帰り着き家族の顔を見たのも束の間、生産者としての道を断念しなければならないかも知れない状況に唖然としました。自分が死ねば一番お金になるので、それが家族のためと思ったりもしましたが、それでも親鯉が生きていることが分かり、そのお陰で今があります。その鯉も過労で亡くなってしまいましたが、生産者として誇りをもってこれからもいい鯉を育てていきます。」と力強く笑顔で話してくださいました。 長岡市役所・山古志支所


この「希望の鐘」は長岡市役所・山古志支所にあります。
旧山古志村にお越しの際には是非立寄って復興に力強く取り組んでいる地域の皆さんからの感謝の気持ちを受け止めてください。

(取材日:2007年10月28日)